*
いただきます、そう言って藤村大河は士郎の作った朝食に箸を伸ばす。
ぷっくりとした卵焼きに狙いを定め、頬張った。
――噴き出した。
「しょっぱあああああ――――!!」
士郎の額に飛び散る残骸。
大河は目を見開き麻痺した舌を出しながら、無愛想に何らアクションの起こさない士郎と己が食した卵焼きの残りを交互に見比べる。
士郎は微動だにしない。
「えっ……あれ、反応なし?」
お粗末に食べ物をリバースしたにも関わらず、作った本人は無反応。
黙々と箸を動かす士郎と桜を見て、場の雰囲気を合わせるために大河は再び食事へと戻った。
卵焼きにリベンジ。
先の光景がもう一度繰り返された。
「ちょ、やっぱり塩だらけ、というか砂糖と塩間違えてるよね!?
えっ、これって苛め? もしかして私のだけとか……」
隣に座る桜のおかずを見定める大河。
金平ごぼうをチョイスした。
「……固っ!?」
流石に不味かったのだろう。
口元にティッシュを当ててこれも返却する。
「ね、ねぇ、これ美味しくないよ? 桜ちゃん何で平気なの?」
「……せ、先輩の料理を粗末にするなんて、わ、私には――」
「この子無理し過ぎてる――――!!」
顔を青くしながらも朝食を頬張り続ける桜を、大河は急いで介抱する。
健気な姿に感動したのか、少しだけ目尻が濡れていた。
ごちそうさま、と士郎は手を合わせて立ちあがる。
食卓を囲む喧騒も、終始耳には届かなかった。
――――正義の味方
亡き養父が目指したもの。追い続けていたもの。
それは、ただの未熟な魔術師が手にできるほど容易なものではないのかもしれない。
一晩明けたにも関わらず、士郎の顔は未だ晴れなかった。
憑依in月姫no外伝
第十四話
士郎が足を向けたのは、自室ではなく道場であった。
姿勢を正し、目を瞑る。
どれだけ精神を沈めようとも、解決の糸口は見えてこない。
昨晩、士郎の元を魔術師が訪れた。
その帰り際に渡された、養父に関する資料。
それが、士郎を歪めている。
「……親父」
亡き養父とここまで切実に話したいと思ったのは、士郎にとって初めてかもしれない。
彼の魔術師としての行いの内、士郎が知ったのはその一部だろう。
加えて、資料自体がデタラメである可能性も否定できない。できないのだが――
「――関係ないか」
そう呟いて、肩を落とした。
強張っている身体から、無理やり力を抜く。
衛宮切嗣は少数を犠牲にする事でその他大勢を救う、そんなやり方を通して来た。
その情報が例え嘘であったとしても、もう胸の内に芽生えた疑問は隠せない。
正義の味方、その在り方。
その行いに対して、その正義は間違っていると果たして言えるのか。
そんなのは嫌だ、なんて幼稚な感情論以外、今の士郎には反論の術がない。
それにもしも本当に、養父が正義故の行動とはいえ自身の手を血に染めて来たのであれば、大火災の後の若くして老衰した雰囲気も頷ける。
おそらく、養父は身も心も擦り果ててしまったのだ。
第四次聖杯戦争で、正義の味方は終わりを迎えている。
養父は聖杯を求めたのかもしれない。
何となく、士郎はそう思った。
「あ、こんなところにいた!」
「……何だよ?」
「うわっ、士郎ってば不機嫌。もしかして寝不足?」
足音に振り向いた先に、大河がいた。
変わらない虎柄の私服姿が、士郎を日常の境に戻す。
「昨日は眠れなかったんだよ」
「珍しい……思春期的な悩みとか?」
「何でさ」
思わず突っ込む士郎。
大河の見解はごく一般の高校生に当て嵌めるならともかく、士郎にとっては見当違いも甚だしかった。
足を崩して、身体を大河の方へ向ける。
気分が優れない今、大河の明るさは士郎には少し辛かった。
「せっかくの休みなんだから、居間で寛いでればいいだろ」
「そうしたいのは山々なんだけどね、何だか士郎ってば調子悪そうだったし……いや、お昼もあの調子じゃ困るじゃん? また吹くわよ、私」
「そ、そんなに不味かったのか?」
「私と同レベル」
「……桜、大丈夫かな」
作った本人が言うのもあれだが、士郎は朝一連の動作を全く覚えていない。
身体に染みついた習慣に動かされていたようなものである。
「まぁ、弟分の士郎が珍しく悩んでるしね。
お姉ちゃんとして相談に乗ってあげようかなって」
「藤ねぇ……」
「で、ついに好きな子でも出来たのかな? まさか桜ちゃんだったり!?」
「……」
早速茶化してくる大河。
士郎は黙って背を向けた。
「じょ、冗談よ。士郎ってばすぐに本気にして……。
で、悩みは切嗣さんに関係する事?」
「っ!? な、何で――」
「呟いてたのが聞こえたから」
「ペース乱されるな、ちくしょう」
よっこいしょと大河は士郎の隣に腰を下ろす。
そして優しく語りながら、視線を合わしてきた。
「士郎は人に頼ろうとしないからね。愚痴でも何でもいいから、お姉ちゃんに喋ってみなさいな」
道場は広く、静寂だ。
大河の声が、耳の奥でやけに響く。
「……藤ねぇには難しいと思うぞ?」
「あんたの方が子供でしょ」
ぐりぐりと頭を抑えつけられる。
それだけの事なのに、士郎は幾分か気が楽になったように思えた。
迷う。
魔術師とは無縁である大河に、しかしある程度言葉を隠せば、それは決して話せない内容ではない。
「…………正義の味方」
「ん?」
「藤ねぇはさ、正義の味方って何だと思う?」
だから士郎は、取りあえず口に出してみた。
事実、士郎はすでに一晩中悩んでいる。
大河の言う通り、何であれ言葉にした方が自身の中で整理がつくのではないかと、そう思った。
「えっ、士郎ってばそんな事で悩んでたの?」
「そ、そんな事……」
「ぶぷ――――っ!!」
不意をつかれたせいであろうか、大河は噴き出した。
本日三回目。
唾が盛大に飛び散った。
「ぐっ、相談した俺が馬鹿だった……」
「ひひ、ち、違うのよ士郎、これは不可抗力で……ぶぷっ――――!!」
「わ、笑うなんて先輩に失礼です、藤村先生」
「あれ、桜ちゃん?」
弱弱しくも大河の暴挙を否定する言葉。
桜の登場によって、士郎の握り拳は緩められた。
「先輩、お片づけ終わりました」
「わ、悪い。そう言えば全部やらせちゃったな……」
「い、いえ、思いつめていたようですし、そのくらいは私に任せて下さい。
……それで、えっと、先輩は藤村先生に相談を?」
「あぁ、どうかしてたよ」
士郎は力なく言う。
「ちょっと、私だって笑うつもりはなかったのよ。ただ、士郎の変化球に対応できなくてツボに入っただけ」
「いいだろ、別に何だって。こっちは真剣なんだから」
「う〜ん、正義の味方に悩む高校生……あれ、意外と格好いい?」
「正義の味方?」
大河の言葉に、桜が首を傾げて反応した。
「そっか、桜ちゃんは知らないんだよね。士郎が正義の味方になりたがってる事」
「お、おい、藤ねぇ! 桜には――」
士郎が割って入る。
小さい頃から知り合いである大河はともかく、年も近い桜に自身の夢を知られるのは気恥かしく思えた。
そんな士郎に向けて、大河はにんまりと口元を曲げる。
「何、士郎ってば恥ずかしいの? さすがに昔とは違うもんね」
「……別に、そんなんじゃない」
「それでね、桜ちゃん。士郎は昔っからやんちゃでね。その理由が正義の味方を目指してる事にあるわけよ。
ほら、だから馬鹿がつくほどお人好しとか言われてない?」
嬉々として桜に話しかける大河。
何気に桜も真剣な表情で聞き入っているので、士郎にとってはどうも居心地が悪かった。
子供の頃から、自分は正義の味方になるんだと言い聞かせてきた。
だが、正義の味方を現実的なものとして捉えた時、士郎はどう動けばよいのか。
それすらわかっていない事に、士郎は今更ながらに気付いたのだ。
がむしゃら、という言葉を言い訳に、目を背けてきただけかもしれない。
リボンを結わえた魔術師の一言。
――貴方自身の在り方を決めたら、こちらを訪ねて下さい。
その課題は、士郎が思っていたよりもずっと難しく、苦しいものであった。
「先輩」
「ん?」
「正義の味方というのは、その……警察とかそういうものですか?」
「違うわよ、桜ちゃん。士郎はみんな救いたいの。それに、組織で動くような型に嵌ったやり方は苦手そうだし」
「みんな、ですか?」
答えるのは士郎ではなく大河。
最初笑い飛ばしていた割には、人の夢をよく覚えているものだと士郎は嘆息する。
夢など語ったのはかなり前の事だろう。
証拠に、全てを救うと躊躇なく言っているのだ。
それが間違いなんて決して思わないが、正義の在り方について疑問を持ってしまった今、その夢に耳を傾ける桜の反応が少し怖い。
「す、素敵な夢だと思います」
「そうね、私だって士郎の夢を笑ったりはしないわ。
ただ、料理も失敗する程に真剣に“正義の味方”について悩んでるのがさ、いかにも士郎らしいなぁって」
それで思わず笑っちゃった、と大河は言う。
「っと、話が脱線してるわね。
えっと、正義の味方が何だかとかそんな話だっけ?」
「在り方だよ。現実的な正義の味方の」
「現実的?」
「……全てを救うなんて、夢物語だろ」
語尾が小さい。
らしくもなく弱音を吐いたと、士郎は自身の言葉に動揺する。
無意識に呟いたのか。
言って初めて、抑え込んでいたものの正体がわかった気がした。
「ふーん、士郎も大人になったのかな?」
「そんなんじゃない。ただ、何も知らなかっただけだ」
極普通の口調で言葉を返す大河から、顔を背ける。
視界の端で、桜の憂いを帯びた表情が映っていた。
「全てを救うだけが、正義の味方じゃない」
自分を救ってくれた養父を、士郎は尊敬している。
魔術師としての姿を直で見た事はないにしろ、昨日の今日で養父は凄腕の魔術師であったと士郎の中では位置付けられた。
聖杯戦争の御三家であるアインツベルンに雇われた事や、第四次聖杯戦争で最後まで生き残った事。
未熟な魔術師とは、到底比べらない。
――――その養父ですら、多少の犠牲には目を瞑ってきたのだ。
「言うだけなら、何とでも言える。でも、それと出来るかどうかは別だから」
「それで、現実的な正義の在り方に士郎は悩んでるの?」
「悩んでいるというか……」
どちらかと言うと、納得できないと言った方がしっくりくる。
だが、両者に大した違いはないと考えた士郎は――結局、首を縦に振った。
「そっか……そんなに悩む事でもないと思うけどな、お姉ちゃんとしては」
「そうか?」
「桜ちゃんもそう思わない」
「私は……わかりません」
大河は憮然として腕を組む。
二人とも真面目過ぎない? と前置きして、話を進めた。
「だって、正義の在り方なんて人それぞれ、時代それぞれじゃない。
例えば士郎はさ、今から日本が他の国の領土を奪ったら、それは良くない事だと思うでしょ?」
「そんなの当たり前だろ」
「そう。でも、一世紀前は違う。むしろそれは正義の類で、他国の人を殺せばそれだけ我が国のためになるとか言っちゃって、褒められこそすれ咎められる事はなかった。
これも一種の正義でしょ? かなり限定的なものだけど、時代を遡れば正義のために行動している人達は多いのよ」
正義の味方には悪いけど、正義なんてそんなもの。
大河はそう、士郎に語りかける。
「……それは、違う。そんなのは、俺の目指している正義じゃない」
「そうね、“士郎の”じゃない。けど、みんなが自分の正義を胸に抱えていた事は事実でしょ?
――だから、士郎もそれでいいんじゃない?」
「え?」
「士郎が思うようにすればいいと思うわよ、私は。何をグズグズ悩んでるのか、わからないけどね」
覗かれる瞳に、見透かされる様な感覚。
大河は愉快そうに、士郎に向かって微笑んだ。
「士郎は逆立ちしても悪い事なんてできないから。
どんな正義であれ、変に頭を捻らないで胸を張って目指せばいいのよ」
「……藤ねぇが何か年上っぽい」
「失礼ね、私はいつでも士郎のお姉ちゃんでしょ」
言いたい事は終えたのか、大河は士郎の肩を掴んで立ち上がる。
「自分の正義がわからなかったら、切っ掛けを思い出してみなさいな。
何で正義の味方になりたいのか、たまにはじっくり過去を振り返るのも必要よ?」
背伸びをして大河は道場を去る。
教師と言う職柄、子供の扱いには慣れているのだろう。
後は普段と変わらず一日中ごろごろしてるつもりだなと、大河の後ろ姿を見て士郎は思った。
高校生になったところで、士郎の頭は大河にはまだまだ上がらないらしい。
「藤村先生って、大人ですね」
「まぁ、普段の態度が変われば完璧だよな」
「でも、それはそれで寂しい様な……」
「おっ、桜も言うようになったな」
「せ、先輩!」
顔を赤くして俯き加減に視線を寄越す桜に、思わず口元が緩んだ。
そんな桜を目にしながら、士郎は想いを馳せる。
「切っ掛け、か」
正義の味方を目指す、その始まり。
それは忘れもしない、養父の死に際だろうと士郎は思う。
――――僕はね、正義の味方になりたかったんだ。
子供の士郎でも読み取れるような、養父の顔に張り付いている後悔が凄く悔しくて。
自分を救ってくれた癖に、負けた様な、諦めた様な言い方が寂しくて。
だから、士郎は夢を継いだのだ。
だが、と士郎は考え直す。
そもそも、自分はそれ以前から既に正義を志していた筈だ。
あの縁側で、月明かりに照らされながらの会話はその想いを決定的に固めたに過ぎない。
養父から魔術を教わったのも、正義の味方になるために。
――否、養父に憧れていたから教わったのか。
衛宮士郎の正義の味方。
その原点に遡る。
正義の味方を目指す切っ掛け。
それは、そもそも“正義の味方”だったのか。
――――養父の顔が、脳裏をよぎった。
地獄とも似た、業火に焼かれるその中で浮かべた養父の表情。
彼は、とても嬉しそうに微笑んでいて――――
「桜、少し出掛けてくる」
「え、今からですか?」
「わかったんだ、俺……自分が何になりたいのか」
返る言葉を聞かず、駆けだした。
動悸が一気に跳ね上がる。
衛宮士郎が壊れる。壊れてしまう。
それでも構わなかった。こんな、こんな大事な事を忘れていたのだから。
地図は頭の中に入っている。
場所は隣町。わざわざ電車を使うのも面倒なので、蔵から自転車を取り出した。
士郎は気付いた。
――――自分は、正義の味方なんて目指していなかったのだ!
身体全身が、ゾッとした。
◇
1DKくらいだろうか。
所々ペンキが剥げ落ちた、古びたアパートの前に自転車を止める。
部屋番号を確認して、扉の前で膝に手を当てた。
無理に動かされ続けた身体が痛い。息が苦しい。
しかし、士郎はそんな事は気にかからないくらいに高揚している。
表札はなかった。
あの魔術師にとっては関係ないかもしれない、と勝手に思い、士郎はインターホンに手を掛ける。
呼び鈴を鳴らした。
『――――はい、どちら様』
「士郎、衛宮士郎だ」
『早っ!?』
ドタバタと響く足音。
空いたドアから、昨晩と同じ髪型の磯野アキが顔を出す。
魔術師然とした雰囲気よりも、今は士郎と同じ、至極一般人に近い感じを覚えた。
「俺、わかりました。何を目指せばいいのか。
時間、大丈夫ですか?」
決意を込めて、短く言った。
アキの背後に人影が見える。昨日一緒にいた磯野琥珀という少女であった。
逡巡するように顎に手を当て、立ち竦むアキ。
「えぇ、衛宮さんが問題ないのでしたら聞きましょう。是非」
玄関口を通され、士郎は中に足を踏み入れる。
奥には琥珀の他にもう一人、長い茶色の髪をした、これまた士郎と同年代に見える女の子がテレビを見ていた。
入ってきた士郎に気付いたらしく、振り向いた矢先に視線が絡んだ。
訳も無しに、身の毛が逆立つような錯覚。
「おい弓塚、琥珀と一緒に寝室の方で待っててくれないか」
「え、何で?」
「ほら、例の魔術師の話しただろ? こちらが、その衛宮さんだ」
「……一週間くらい先じゃなかったっけ?」
会話を交わす二人から、ふと部屋の隅に視線が映った。
部屋の角、その四ヶ所に文字の書かれた拳大くらいの石が置かれている。
文字は仮名文字でなく、アルファベットでもないため、士郎には読めない。
石の周囲には綺麗な模様が床、壁を侵食して描かれていたので、魔術に関連したものだろうと推測した。
「衛宮さん?」
「おわっ、す、すみません!」
「いや、何を謝って……あぁ、あれを見ていたんですか。単なる結界ですよ、上手く描けてるでしょう?
ま、それはそうとお水でも如何です?」
息切れしてるのが見て取れたのか、ボトルに入ったミネラルウォーターを渡される。
確かにお茶よりは有り難いと思い、飲み干す士郎。
肩で息をする程度まで、落ち着いた。
「それで、決めたんですね、衛宮さん」
「……親父の事、嘘じゃないんだよな?」
「聖杯戦争に参加すればいずれ知る事ですから。ルートによりますけど」
「ルート?」
「気にしないで下さい」
アキが座ったのを見て、士郎もテーブル越しに腰を下ろす。
気持ちの現われか、自然と姿勢が前のめりになる。
正面の魔術師を見据えて、己の内を告白した。
「――――俺は、切嗣になる」
俄かにアキの容貌が歪んだ、ように思えた。
眉尻を下げ、どこか物哀しい、それでいて冷やかな口調に変わる。
「差し向けたのはこっちだし……まぁ、予想はしてたが……」
「それが、俺の在り方であり、答えです」
「……」
アキは頭を掻く。
切り揃えた前髪に、顔の半分がそっと隠れた。
間を取った後、アキが士郎に問う。
「大を救うために少数を犠牲にする。
切嗣になるという事は、それが衛宮士郎の正義の在り方になるぞ」
「――違う」
「へ?」
てっきり肯定されると思って疑わなかったのか、士郎の否定にアキは間延びした反応を返す。
目を見開くアキに、喉の奥から声を絞り出して意思を伝える。
「俺は、切嗣にはならない」
犠牲を最小限に止める、最初からそう割り切りはしないと瞳で訴える。
「正義の味方を目指そうとは思わない。
だって、俺は別に正義の味方になりたいわけじゃなかったから」
正義の味方、それ自身に憧れたわけではなかったのだ。
それは本音を押し込めるための隠れ蓑。何時、如何なる時も、士郎の目指したものはそれではない。
「俺は正義の味方なんかじゃなくて……ただ、親父のようになりたかった。いや、笑ってみたかったんだ」
九年前の、死の淵にいたあの時。
養父の微笑みを見て、それがひたすらに尊く見えた。
自分もあんな風に笑えたらと、一心に憧れてしまったのだ。
だから、衛宮士郎は衛宮切嗣になるために正義の味方を目指した。
正義の味方になりたかったからでなく、養父のようになりたかったから。
士郎にとっては、それはあくまで二次的な副産物に他ならない。
士郎の口振りに、アキはどう思うのか。
魔術師は何も言わず、黙していた。
そんな魔術師に向けて、士郎はぎこちなく笑う。
「だから俺――――キリツグになるよ」
「切嗣……」
「切嗣じゃなくて、キリツグな。えっと、発音は同じだけどさ」
込められた意味は、想いは違う。
正義の味方として生きた養父は、しかし最後には言ったのだ。
自分は結局、正義の味方になれなかったと、幼い士郎に紡いだ言葉。
それは養父が今まで犠牲にしてきた人達への懺悔であるとともに、彼の目指す正義は決して犠牲を容認していなかった現れでもある。
養父が目指した正義の味方はどのような形であったのか。
おそらく、そこに感じた尊さは自分と同じだろうと、士郎は自信を持って言い切れる。
誰も傷つく事のない世界を、夢見ていた筈だ。
「――――切嗣が目指していたキリツグに、俺はなる。
正義の味方は関係ない。俺がなりたいから、あの人の理想になってみせる」
「つまり……どういう事だってばよ?」
「キリツグは全てを救うから、俺も犠牲は出さない。諦めないで、足掻いてみせる」
「変わってなああぁああいっ――――!!」
ゴツンと盛大に頭を打ち付けるアキ。
何事かと、開き戸がスライドして奥の部屋から二人の少女が慌てて駆けつける。
対して士郎は、場違いにも声を出して笑った。
年相応に笑えたのは、いつの日以来か。
喪失していた、何か大事な感情を思い出した気がする。
キリツグになりたい。
変に思われるかもしれないが、士郎が持つ、士郎だけが持つ唯一にして絶対の理想。
今なら胸を張って、夢を語れるだろう。
結局進むべき道は何も変わらない。でも、もう疑う事はない。
「答えは得た。と言う訳でさっそく魔術を教えてくれないか、アキさん」
「突っ込みどころは多いが……アキさんって違和感あるな、おい。
……敬語止めていい? 呼び捨てで構わないからさ」
「あぁ、それじゃアキ、でいいか?」
互いに呼び名を確認し、いざ聖杯戦争への準備を進める。
歩き出す。ここから、衛宮士郎は歩き出すのだ。
目蓋を閉じる。
脳裏に移すのは、決して廃れる事のない思い出。
全ての記憶がセピア色になったとしても、あの情景だけはいつまでも鮮明に残るだろう。
夜風に吹かれる養父の横顔。眼差しに秘められたその理想。
……切嗣が目指した本当の在り方。
それを頼りにして、いつか、その場所へ辿りつく。
決意を心に穿ち、士郎は静かに上を向いた。