「たまやー……って多っ!?」
「おぉ、ラストスパートだな、これは」
空で派手に散っていく大輪を二人で見上げる。
互いにタンクトップに半ズボンなんて恰好で縁側に腰掛けて、星空と共に夏の風物詩を眺めていた。
今年の夏は、馬鹿に暑い。
これ以上脱ぐ事はできないが、本格的な暑さはまだ半月ほど先だろう。
扇風機と風鈴でどこまで耐えられるか……後十日もしたら、弓塚を置いてクーラーの効いている有間に転がり込むかもしれん。
「琥珀ちゃんも一緒に見られれば良かったんだけどね」
「……あんまり翡翠と過ごす時間を取るのも気が引けるし、仕方ないだろ」
「うん。わかってるけど、ちょっと残念だなって。
……いや、この状況も全然構わないよ? 思わず吸血鬼だって忘れちゃうくらいくつろいでるし」
「危機感の無さに突っ込むべきか、人間らしさに微笑むべきか……」
光に遅れて、音が響き渡る。
無邪気に振る舞う弓塚を横目に映して、また微妙な面持ちで夜空に目を向けた。
タタリの発生を危惧して、七、八月の間は三咲町で過ごしている。
弓塚は橙子さんのところに置いておきたかったが、理由を素直に話したらついてきた。
説得するには信用、というより実力が足りなかったらしい。
まぁ、二月くらいなら大丈夫だろうと言っていたから、そっちの心配はないんだけど。
琥珀は有間の家で翡翠ともどもお世話になり、俺と弓塚は離れの方へ。
そこでタタリを警戒しながら、夏が過ぎるのを待った。
橙子さんのところで酷く頭を痛めてか、最近はぼんやりしている事が多い。
一種の平和ボケ。
修行の反動で気が抜けているのだと思う。言い換えれば、それだけこっ酷くやられたわけだ。
「しかし蚊が煩いな、この時期は」
「そう? わたしはどこも吸われてないけど」
「皮膚がおかしいんじゃないか、お前。
こっちなんてもう身体中……何と言うか圧倒的に痒いぞ」
弓塚が吸われない分、こっちに群がってるんじゃないかってくらい。
蚊取り線香が気休めにしか見えない今日この頃。匂いは好きなんだが。
「わたしは普通だもん。アキ君の血が美味しそうだから悪いの」
「…………えっと」
「わたしだって――――じゃ、じゃなくて! ほ、ほら、今年は去年より暑いし、雨もたくさん降ったじゃん!
それに健康的だからだよ、きっと!」
「花火綺麗だな、おい」
そうだね、と慌てた調子で視線を戻した。
居心地が悪そうに、座りなおして若干距離を取る弓塚。
素で言っているのか、冗談で言っているのか。
……十中八九、素だろうな、きっと。
口走る言動が、近頃は見逃せないものが増えてきた。
琥珀の様に下ネタで自爆するなら可愛いものだが、如何せん吸血鬼然とした内容には背筋が震えてしまう事もある。
リボンで括ったポニテを揺らす。
琥珀もいないし、修行でボロ雑巾になった精神も大分癒されてきた。
そろそろ動くのも、悪くない。
「弓塚、花火を見終わったら少し出掛けないか?」
「え、こんな時間に?」
立ちあがって身支度を整える。
弓塚は着替えるつもりなのか、隣の部屋に移動した。
「どこ行くの? コンビニ?」
襖越しに声が届く。
「行ってからのお楽しみだ。あんまし期待されても困るけど」
「……もしかして、海岸線をバイクで走って昇る太陽を一緒に見ようとか」
「漫画の読み過ぎっ! それに日に当たったら溶けるだろ、お前!?」
「――――忘れてた」
ハッとした呟きに頭から転びそうになる。
本気でボケてるだろうから判断しかねるんだよなと、安堵しながら頭を抱える。我ながら器用だ。
渡したいものがある。
自分のために、そして弓塚のために。
「誕生日には少し早いけど……」
「アキ君、準備できたよー」
「今行く……って弓塚! タ、タンスが開けっぱなしだっての!」
「え、わわっ、み、見ちゃ駄目だよ――――!!」
憑依in月姫no外伝
『幕間・その一』
「四ヶ月ぶりか、懐かしいな」
「ここって……」
「よし、入るぞ」
「えぇ!? だ、駄目だよ、不法侵入じゃん!」
小声で喚く弓塚を隣に、周囲に人がいない事を確認。
閉ざされた門を軽く跳び越えて、手招きしてやる。
「ちゃんと受かったんだから、一度くらいは大丈夫だって。
それに、まだ教室まで行った事ないだろ、俺たち」
「そうだけど……もうっ、怒られても知らないよ?」
仕方ないなぁ、と笑って弓塚も跳躍した。
ストっと地面に着地する姿を見て、改めて人間離れしてるなと心の中で思っておく。
三月に合格発表があって、猟奇殺人事件が起こらなければ互いが通っていたであろう高校。
蒸し暑い夏の夜に、人目を忍ぶようにして訪れた。
「でも、いきなりどうしたの?
アキ君、そんなに高校に行きたかったっけ? ……あんまり乗り気じゃなかったような記憶が」
首を傾げる弓塚。
言っている事はその通りで、合格発表を二人で見に行った時も、嬉し泣きする弓塚にオーバー過ぎるぞと突っ込みを入れていただけ。
ここに来たのは、話す雰囲気を作るため。
しかしそれを今言ってしまったら意味がないので、
「何となく気分で」
無難に答えておいた。
「高校の思い出が一つもないってのは寂しいと思ってさ。
夜に校舎を徘徊するだけでも、それなりの記憶として残るだろ?」
弓塚の足が止まる。
振り向いて顔を覗いたら、ちょっと深刻な顔つきをしていた。
適当に答えたつもりだったが、弓塚には考えるものがあったらしい。
「あー、やっぱり止めるか?」
「……うぅん、わたしも一緒に行く。せめて、自分の席くらい確認したいし」
「志貴の……いや、俺のクラスは確か1-Cだったっけ。同じだったらいいな」
「うん、もし同じなら八年連続だね」
努めて明るく振舞おうとする姿に、本気で離れに戻った方がいいかと一瞬思った。
頭上で静かに光るのは満ちた月。
……見極めるには、やはり今日が最適なんだ。
手を取って、道行く先を先導する。
懐かしさにかつての学校生活を喋ったりした。弓塚も同調して話に乗った。
校舎は渡り廊下が崩壊していて、今は工事中。
アルクェイドが空想具現化を放ったか、原作通り志貴が魔眼を使ったのか。
おそらくは後者だろうけど、今は弓塚と一緒に驚いておいた。
「――――円で切り取って、ほいカチッと」
「……アキ君って泥棒さんだっけ?」
「道具があれば誰でもできるぞ、これ」
二階の窓から侵入する。
手口を見ていた弓塚は非難するような目つきで見つめてくるけど、窓を丸々一つ壊すよりは余程いい。
帰りに接着剤でくっ付けておけば、しばらくは誰も気付かないと思うし。
「うわぁ、この机とか懐かしい。それに席ってやっぱり皆離れてるんだね」
「そりゃ中学とは違うからな。高校まで男女並んで座るなんて、さすがに無いだろ」
「うぅ……でも、これって席替えの楽しみが無くなっちゃうんじゃ……」
四角い部屋の中に四十近くの机と椅子。
黒板があって、教壇があって……特に中学と大差はないにも関わらず、どこか気分が高揚している。
黒板に白のチョークで書かれた時間割を眺めている弓塚も、その顔は何だかんだ言って久しさを楽しんでいる感じ。
ただ、膝元まで伸びた髪と微かに身に纏う死徒の雰囲気が以前との境界線を表すようで、感情に悲しみも少し混じった。
「それじゃ着替えるぞ、弓塚」
「え?」
「実は、この時のためにすでに購入していたりする」
手にしていたバッグから、高校指定の制服を一着ずつ取り出す。
もちろんこれは通販で購入。実際に買いに行ったら、女物の制服なんて買えるわけないし。
……もしかしたら、外見的に問題ないかもしれんが。
「い、いつの間に……」
「いや、いつか忍び込んだ時にでも使おうと思ってな。
ほい、後ろ向いてるからさっさと着替えるぞ」
「えっ、アキ君もここで着替えるの!? 隣のクラスとかじゃなくて」
「夜の学校に一人でいるとか普通に怖いだろ、さっちん」
「……あれ? 吸血鬼だよ、わたし」
「細かい事はいいんだよっ」
制服を手に取り、後ろを向く。
上を脱いだら、弓塚が慌てて目を逸らしたのだろう。ゴツンと何やら鈍い音が暗い教室に響いた。
「もういいか?」
「ま、まだ駄目っ! 絶対駄目だよ!!」
弓塚を面白半分に急かしながら、学ランのボタンを順に嵌めていく。
なりを確認しようと手鏡を取り出し、遠くに離して……着替え中の弓塚が映ってた。
綺麗な肌色と水色のホックが見えたところで、無言で閉じておく。
覗き見とか、良心の呵責が半端ないので。でも少し役得です。
「アキ君?」
「うおっ!」
「……どうしたの、そんなに慌てて?」
振り返ると半袖のワイシャツに青のスカート、黄色いベストを着た弓塚が視界に入る。
原作通りの格好なのに、少し不意打ちを食らった気分。反射的にそっぽを向いた。
「えへへ、アキ君ってば何だか男装してるみたい」
「思ってても言わないでくれ」
「セーラー服と大分違うよね、これ。どう、似合ってるかな、わたし?」
「……人を女扱いする奴には答えたくないぞ」
「ふむ、“似合ってない”じゃなくて“答えたくない”って事は……つまり、そういう事だよね、やった!」
「テンション高いな、おい」
言われっぱなしは癪なので突っ込んでみるも、弓塚は回ったりスカートを摘まんでみたりしていて聞く気なし。
溜め息吐いて、再び手鏡で自分の身なりを確認してみる。
……リボンと学ランが究極的にミスマッチだった。
「あ、見て見て! クラスの名簿にわたしとアキ君の名前がある!」
教壇の上に置いてあった名簿を目にしてはしゃぐ弓塚。
格好の事は棚上げしておき、隣に立って俺も目を通す。
闇の中ではさすがに見えにくいので、月明かりが届く場所まで持っていく。
「おぉ、確かに遠野シキってあるな」
「席替えしたのかな? まだしてなかったら……えっと、ここら辺かも」
後ろから数えて三つ目の机を選ぶ。
制服姿で席に着く弓塚は、中々、様になっていた。
しかし、そこは弓塚の席ではないだろう。
さっきのお返しに、出来るだけ意地悪な風を装って言う。
「いやいや、お前の席は絶対あそこだろ、窓際のソレ」
弓塚の座る廊下側とは逆方向を指し示す。
確信したような物言いにおそらく疑問を感じながら、弓塚は指の先を追って行き……
「――――え、えええぇ!? こ、これって!!」
しっかりとリアクションしてくれた。
その驚き様に満足する俺。
「か、花瓶が置いてあるじゃん! 苛めだよ、これ!? しかもすごい悪質の!!」
「むしろ感謝しろって。休暇中だってのに花はちゃんと手入れされてるし」
机に駆け寄り、花瓶を憎たらしそうに睨む弓塚。
ピシッと亀裂が斜めに入る。……洒落にならん。
「わたしっていつの間に死亡扱い?」
「最近は新聞読んでないからわからんが……行方不明者数だけでも十を超えてるからな」
「で、でも……むぅぅ」
「っておい! さり気なく花瓶を退かすなよ」
「後で戻すもん。そうだ、鉛筆ないかな……」
「何書くか知らんが、帰る時には証拠隠滅するからな」
愚痴もといメッセージを殴り書きする弓塚に忠告しておく。
本人はいい気分だった所に死人にされてるのを突き付けられて相当ショックだったらしい。ちょっと目尻が潤んでた。
机に膨れた顔をくっ付けた恰好がまるで小動物っぽくて、見てるこっちも脱力する。
適当な椅子に腰かけて、伸ばした手に何か当たる感触。
見ると、机の中に教科書やらノートやらが詰め込まれている。今は夏休み中だってのに中々の置き勉である。
……ノートに書かれてある名前を見たら、志貴のだった。
何してるんだよ、マイブラザー。
「そして白い。凄く真っ白だぞ、これ」
数日しか高校に通っていないのだから、大して使っていないのは当たり前。
だが、ノートの全てが書き途中な感じ。例えれば、授業が全くわからなくて数分経たずに投げ出したと言うべきか。
「……そういえば、志貴って義務教育受けてないよな」
いきなり高校行かせたのは無謀だったかもしれん。
そこまで気が回らなかったから、仕方ないけど。
真っ白なそれを捲りながら、志貴が帰ってきたらどうするかを思案する。
何気に翡翠もアホな子だと思うので、家庭教師を雇って一緒に勉強させるのはどうだろうか。
青子の魔術教育は難航しているらしいので、何年後になるかはわからないが。
「――――アキ君」
呼ばれて、俯いていた顔を上げる。
いつの間にか、弓塚は窓辺に寄りかかり月影の中で微笑んでいた。
「ん、どうした?」
「えへへ、何でもないよ、呼んでみただけ」
「……シバクぞ、さっちん」
「ちょっ、怒らないでよ!?」
別に怒ったつもりはないが、視線の先に佇む姿が何となく気に食わなかった。
笑ってるくせに、どこかシリアスな雰囲気。
そう、悲しい事なんてないのに儚げな表情をしているのが嫌なんだ。
「高校って、思ってたよりいいところかもね」
弓塚はこっちを見ないで、宙を見つめたまま。
照らされるのは月光で、夕日ではない。
なのに昔の記憶……原作での一シーンと弓塚の姿が、どこか重なる。
いつか、学校で志貴に語りかけたアルクェイドに酷似している。
「わたしさ、学校で皆と会うのは楽しいけど、授業は退屈だなぁとか、部活面倒だなって好き勝手思ってた」
「普通だろ、誰でもそう思うぞ」
「うん、だから、何か変わった事が起きないかなって時々考えて……厨二病じゃないよ?」
「本当か? 日記にポエムってたりしないのか?」
「な、何で日記のこと知ってるの!?」
ドラマCDです、とは口が裂けても言えなかった。
というか、この世界でも恥ずかしい事書いてたのか、弓塚は。
「……な、何て今のは冗談で、間違ってもわたしは日記帳なんか持ってません」
「よし、今度、友人のよしみで弓塚の部屋まで上がらせてもらうか。
何、泣いて弓塚との思い出を、とか言っておけば通してくれるに違いない」
「お、お願いアキ君っ! それだけは駄目、何でも言うこと聞くから!」
もの凄い勢いで懇願された。
逆にそこまで拒まれると、空恐ろしいものがある。
「何か弓塚のイメージが天変地異しそうだから、止めとく」
「そ、そう……あ、もしお母さんに読まれたらどうしよう」
「そんなにヤバいのか?」
「アキ君のところに押しかけてくるかも……」
「なにそれ怖い」
一体、何を書いたんだろうか。
ポエム全開で弓塚の母親が内容を把握できない事を心から願う。
「――――って、話逸れちゃったじゃん、アキ君のせいで!」
「待て、今のは自分から逸らさなかったか?」
「…………それで、わたしって吸血鬼になっちゃったでしょ?
強い吸血鬼や代行者さんと戦って、危ない目にあって……今までの世界が反転したと思う」
「無視して話を戻したか」
逸らそうとした話を、強引に進められた。
これ以上、露骨に横槍を入れても文句を言われるだけだろう。
「それで今日、こうやって教室を眺めてて思ったんだ。わたしって贅沢なことで悩んでたんだなって」
「そんなに贅沢か?」
「うん、だって、簡単には手に入らないものだって気付いたから」
言葉にして気持ちを吹っ切る人と、その言葉で自分を絡めてしまう人がいる。
弓塚は根が一歩引いた性格であるためか、後者。
だから、その後悔に似た言葉は懺悔を聞いている様で、そんな事を言って欲しくないこっちとしては甚だ不快になっていく。
「陳腐かもしれないし、一見無駄な日常を過ごしているのかもしれない。
でも、その当たり前の事が、実はすっごく幸せなんだって、この身体になって初めて実感できたんだ、わたし」
「……何か寂しくないか? それ」
「寂しいって言うより、馬鹿なだけかも」
軽く頭を小突いて、自重気味に笑う。
その仕草が、気に食わない。
大した取り柄がない俺はともかく、弓塚は吸血鬼化しても人間らしさを忘れていないんだ。
それだけでも立派な事で、自分を卑下する必要なんてどこにもない。
周りに迷惑かけるのを怖がったり、自分が耐えればと我慢したり……そういう後ろ向きな性格が、とてももどかしい。
それが弓塚の良さでもあるから、丸っきり否定も難しくて。
「――――席につけ、弓塚っ!」
「え、何?」
「馬鹿なさっちんに勉強を教えてやる。だから授業だ」
「……なにその展開?」
取りあえず、怒鳴ってみた。柄じゃないけど。
少なくとも、ここに来たのは弓塚をこんな顔にさせたかったからじゃない。
高校を見て回って、また通えるようになったらいいね、なら修行そして聖杯戦争を頑張るか、的なノリを期待してただけ。
後、少しでも特別な雰囲気になれば、弓塚の隠している悩み事もこいつの口から言ってくれるかと思っていたから。
だから、寂しく笑う弓塚なんて一刻も早く退場だ。馬鹿野郎。
「……馬鹿野郎っ」
「えっと、わたし何か悪い事しちゃった?」
「気にするな」
「うぅ、アキ君が不機嫌だよ」
恐る恐る席に着き、何を思ったのか次の瞬間には悪戯する様な笑みを浮かべる。
こいつも中々、切り替えが早い。
「けど、アキ君だってわたしと学力変わらないでしょ? それなのに教師の真似なんて出来るのかな?」
「……私にいい考えがある」
「何だっけ、そのネタ」
初代だよ、コンボイの。まぁ、そんな事はどうでもいい。
「保健体育なら詳しいぞ。年頃の男だし」
「……えっと」
「ヤバい、外した」
琥珀を見習ってボケてみたが、変に気まずくなった。
慣れない事はするものじゃない。
と、何を思ったか黙っていた弓塚は、恥ずかしそうに言葉を紡いだ。
「……なら、二人しかいないし、お医者さんごっことか?」
(しまった、こいつって空気読めない子だった)
ボケにボケで返されて、窮地に陥る。
沈黙が痛い。
何か喋れよと弓塚に視線を送って……相手の同じ視線を送っていた。互いにヘタレである。
学ランはさすがに暑いので、脱いで畳んで置いておく。
こちらの一挙一動を、弓塚が気にしている気配。
……口実は、できたかもしれない。
そう思って足を踏み出す。
そのまま、近付いた。
「それじゃ、医者役としてまずは心音でも計ろうか。頼むからパンチは勘弁な」
「え?」
言って、そっと正面から背中に手を回す。
密着して、互いの顔が首に埋まるような格好。
第一ボタンは開けてある。
窓辺なので、十分に月明かりも届くだろう。
首筋は、目の前にあるはずだ。
腕の中の弓塚が、声を絞る。
抵抗している素ぶりはないにもかかわらず、身体の震えが感じ取れた。
「ア、アキ君……苦しいっ……!」
「いや、全然力は入れてないぞ?」
「そ、それは……」
わかっているのに、知らない振りを。
けど、これは弓塚の自業自得だ。さっさと言わないから、こんなまどろっこしい真似をしているんだ。
吸血衝動。
肉体の維持ではなく、精神の問題から生じる欲求。
いつかは、弓塚もそれに悩む日が来るのだとは思っていた。
(それは、別にいい。仕方のない事なんだし)
ギリっと背中に爪を立てられたので、お返しに弓塚の小さい頭をこっちの首筋に当ててやる。
湿った唇が、首の皮膚を濡らした。
(なのに、琥珀には薬の量を増やしてくれとしか頼んでいない。俺や橙子さんに限っては何も言わない)
相談しないのは、弓塚の性格ゆえだろう。
こいつの事だから、俺や琥珀に凄く迷惑かけていると心の中に罪の意識を持ってるかもしれない。
すでに、何度か意思は伝えた。
迷惑なんて思っていない。気にするな。ちょっと影が覗く度に、結構な言葉を掛けたと思う。
……それでも、未だに治らないなら、後は意地の張り合いだ。
幼馴染という位置付けに、目が曇っているのだろう。
吸血鬼相手にこんな真似、弓塚じゃなければ絶対にしないし。
「怖い……わ、わたし、段々怖くなってきた」
「何でだ? 間違っても襲ったりしないから安心しろって」
「そ、そうじゃなくて……アキ君が、襲うんじゃないんだよぅ……」
緊張で、心臓が飛び出しそうになる。
甘い意味ではなく、恐怖という感情から。
弓塚自身から頼ってくるまで、行為を止めるつもりはない。
背中の激痛に負けないくらい、腕に力を込めてやる。
やがて、力の均衡が崩れた。
こちらに身体を預けて、泣きそうな声で弓塚は言う。
「……えへへ……アキ君、やっぱりわたしって、死んだ方がいいのかも」
それを聞いた途端、肩を掴んで弓塚の顔を正面に捉えられるように離した。
頬が涙に濡れていて、息を荒い様は何故か酷く官能的で。
顔を朱色に染め、甘く切ない表情をした弓塚。必死に我慢した跡なのか、血が垂れている唇の端。
胸の内で弾け、我を忘れて弓塚を押し倒した。
……殴る的な意味で。
後半に続く