志貴の部屋へと入った二人は、入った後、その行動目的を躊躇うことから始まった。
日当たりの良い、見た限りでは私物の少ない、白く綺麗な部屋で志貴は寝ている。
少し揺らして、または軽く頬を叩いて、それで挨拶を交えるつもりだったのだが、
「……静かに寝ていますね」
「熟睡、かな? 昨日ずっと都古ちゃんに振り回されてたし」
二人ともその寝顔に見とれていた。
怖いくらい穏やかな顔で志貴は眠る。人間とは別種のアルクェイドでさえ首根っこ掴むのを思わず止めるほどなのだから、ましてやすでに好意、信頼を寄せている二人が見惚れない道理はなかった。
「こうやって遠野君を見てるとね、やっぱり遠野君てどこか普通とは違うなあーって思うよ。いつかな……確か前にも同じことを思った気がする」
弓塚が一人、ベッドの横にしゃがんで囁くように言う。顔の先には志貴の顔。だけどその言葉は誰宛てでもなく自らへの独白みたいだと、聞いたシオンは思った。
「志貴が吸血鬼の存在を知っていて……さつきがそれを知っても驚かなかったのは、そう思っていたのが原因ですか?」
「う〜ん、どうだろう。よくわからないけど、遠野君なら何でもありかなって」
「確かに、志貴は出鱈目ですからね」
シオンは言いながら、弓塚とは違う一歩引いた位置で志貴の寝顔を見続ける。
出鱈目、と文句は言いつつもその顔は穏やかなのは彼と一緒にいることで得られる安心から。だが志貴に限って、このように「死ぬ」ほどの静けさで眠るのは怖くも感じる。
「……さて、では少し後ろめたい気もしますがそろそろ志貴を起こしましょうか」
限をつけるのはやはりシオンだった。
使用人としてここに来た以上、また他の仕事もあるため、いつまでも見とれているわけにはいかない。
「ということでさつき、お願いします」
「ええっ、私!?」
「はい……その、私としては志貴の寝顔を見た後だと非常に起こしにくくて」
「う〜……」
それは私も同じだよっ、と言いたげに弓塚は唸るが、シオンには普段からお世話になってるのに加え、シオンが何かを自分に頼むことなどあまりない。自分は頼りっぱなしだというのに。
そのシオンがお願いしているのだから弓塚が断れるはずもなく、
「……と、遠野君。悪いけど起きてくれないかなあっと」
恐る恐る、志貴を揺らす。
目を瞑りながらしばらくその動作を続けるが、おかしいことに何にも反応がない。
「あ、あれ?」
弓塚は目を開いてパチクリする。もう少し続けてみるが、普通なら唸ったり身じろぎしたりすればいいものを志貴は死んだように動かない。
ちょっと強めに頬を叩いてみるが、これも効果無しでうんともすんとも反応がない。
困惑した顔でシオンの方へ振り向く。
「大丈夫です、さつき。だいたい死んでいたら志貴の顔は土気色になっています」
「……あ、そっか」
言われてみればそれもそうだ。志貴の顔は血行が良く、おおよそ死人とは結びつかない。
ほっと杞憂だったことに安堵して、ならば志貴が起きないのはただ単に鈍いだけなのだろうかと、弓塚はその疑問を強めのビンタで確認する。
なるほど、平然としている志貴を見ると余程寝起きの感覚には鈍いらしい。
「耳元で叫ばなきゃダメかな?」
「確率的に、今のでダメならばそれしかありませんね」
シオンの了承を得て弓塚は志貴の耳元へ顔を近づける。ベッドが軋むが、志貴はこれくらいの事で目を覚まさないとわかった以上、遠慮する必要もなくなった。
「えっと、右耳を上にしてっと……ふう、それではっ」
叫ぼうとする弓塚、が一瞬止まる。
膝枕にした太腿に、いつの間にか手が添えられていた。それがヒヤリと感じた正体。弓塚の手が志貴の顎と頭にかかっているのを見れば誰の手なのかはすぐにわかる。
もう、起きたのかな? と妙に張り切っていた虚勢を削がれた弓塚。そしてその安心含めた油断がまずかった。
なぜなら、ここは志貴のベッドの中なのだ。
「え? きゃあ――――――!」
「さ、さつき!」
本日何度目かの悲鳴を上げながら、弓塚は志貴のベッドに引きずり込まれた。寝てると思っていた、まるで計算外の行動に慌てるシオン。
苦虫を潰したような表情でメイド服のポケットから拳銃を取り出し、志貴の頭の上部に狙いをつける。
「ふざけるのもそこまでです、志貴。いくら主人であろうとも主従関係を利用して不埒な行為に走ろうとするならば即刻―――」
「し、シオン、待って!」
弓塚が必死に静止するのを聞いて、シオンは引き金にかける力を若干緩める。しかし、だからと言って許せるわけではない。
「何故ですか、さつき!? このままではあなたの身が、」
「だ、だって遠野君寝てるし……」
志貴の腕の中で縮まったまま、困った風に弓塚が言う。シオンも冷静に観察すれば志貴は規則的に寝息を立てて……ようするに寝返りだったらしい。
「何て紛らわしさ、さつきは大丈夫ですか!?」
「大丈夫だけど、ど、どうしよう……怖いくらい幸せだよぅ」
弓塚は震える。今の自分は愛しく想い続けていた彼と密着。事故とはいえ、様々な不幸イベントで幸薄と言われてきた自分がこんな事、本来なら夢の中でさえあるはずないのに。
だから、幸せすぎて意識が危うい。
「さつき! く、この、志貴も放しなさいっ」
「し、シオン〜」
涙目のさつきに訴えられ、シオンは志貴の腕を解こうと躍起になる。しかし寝ているくせにホールドが固く、恐ろしいくらいにビクともしない。
本来ならシオンはもっと冷静でいたい。
だが弓塚の状態が冷静でいられるほどの猶予がない。長く不幸の渦中にいたせいでluckへの耐性がまるでないのだ。
シオンが志貴の頭をポコスカ叩き始めた。それに呼応して志貴の動きに変化が起きる。
「へ、や、ちょっ遠野君! だめ、まだダメだよ!」
志貴の手がゆっくりと弓塚のメイド服へと侵入する。比較的ガードの高い服なのだがデザインの統一が災いして志貴にとっては慣れているメイド服も同然だった。
「まだというのも気になりますが、志貴の動きが正確すぎるっ、なぜ、なぜなのです!?」
もちろん日々の運動の賜物だった。
弓塚の表情がもう限界を表している。くぐもった妖しい声を上げながら息も絶え絶え、土気色ではないけど弓塚のパラメーターを考えるとそろそろ死んでもおかしくない頃合いに差し掛かる。
「んっ……シオン―――」
昇天する寸前、シオンの金色の腕輪が光った。
ヒュっと風を切る音と同時に志貴はフリーズ。ついでにシオンが少しの操作を施してからエーテライトは戻された。
志貴の強固な腕が消えて力なしに弓塚は脱出しようと後ろへ転がる。もともとベッドは一人用のため広くなく、転がりすぎて床に落ちた。
「うぅ、大変な目に遭った……でも嬉しかったかも」
「さつき、恍惚に浸るのも良いですが早く服の乱れを直してください。エーテライトで志貴の神経を直接刺激しましたから、そろそろ起きるのは間違いないです」
それと、とシオンは付け足す。
「志貴にはエーテライトを使用したことを黙っていて下さい。知る人たちとの間では、このようなものは使わないと約束がありますので」
一時でも約束を破ったことを悔いるように言う。
「わかった。シオンがそう言うなら」
「感謝します。さつき」
「ううん、感謝するのはこっちだよ。助けてくれてありが、」
「―――ふあっ、ん、翡翠?」
唐突に志貴がむくりと起き上がる。寝ぼけているうちに弓塚は慌てて立ち上がり、着衣の乱れをシオンの後ろに隠れながら素早く直す。受け答えは代わりにシオンが率先した。
「おはようございます、志貴」
「あはよ……ってあれ、シオン? 何で、しかもその服」
「はい、使用人なのでそれらしい格好をと」
「…………」
「志貴? どうかしましたか?」
「あ、いや何て言うか、可愛いと思って、」
寝起きの不意打ちにしどろもどろになる志貴。
「ありがとうございます。では私からも感謝の印に忠告を一つ」
頭が半覚醒状態の志貴には聞こえないが、シオンは気付いている。
一度聞こえた扉の音。推測するに先に顔を洗いなさいよと窘められて、それが終えて来るところは。
その先に楽しみが待っているように、駆け足が近付いてくる。
「そろそろ身構えた方がいいですよ」
「え?」
志貴の疑問とシオンが身体を引くのは同時だった。
志貴の問いはシオンの言う意味がわからないから。それに加えてなぜシオンが自分の視界を開けるように下がったのかもわからなかったが、
扉が勢いよく開く。
「ほ兄ちゃ―――――――――ん!!」
ものの一秒で理解した。
「み、都古ちゃん、ちょ、スト―――っぶ!」
ミサイル如く都古が腹に着弾し、朝から盛大に志貴は咳き込む。
都古は怪我なしでしっかり起き上がり、笑顔で志貴の行動を待つ。
だが都古のテンションにもとから低空気味の志貴の身体はついていけない。寝起きなのが余計にテンションの差を増して、元気に遊ぶことを期待している都古にとても答えられる状態ではない。ダイビングされただけでも疲労感は抜群に溜まるのだ。
はっちゃけ同士の遊びあいなら琥珀さんが向いているはず。そう思って部屋にいつの間にか入ってきた琥珀を見つけて視線を送る。
「ほら、やっぱり何事も勢いが大切なんですよ。これで都古ちゃんも志貴さんに恥ずかしがらないで挨拶できるようになりました!」
まるで頼りにならなかった。手を叩いて喜んでいる始末である。
しかも何気にこれを都古の志貴に対する標準挨拶とするらしい。挨拶は人間関係の基本だが、毎日悶絶する様は恐ろしい以外何でもない。というか、琥珀に都古を任せたのがある意味で失敗だったのだ。
「し、シオン、弓塚さんっ」
「……志貴には少し反省してもらわなければなりませんから、良い薬です」
「ごめん、助けたいけどシオンは恩人だから、私も助けられないな」
シオンが冷たく、弓塚が苦く笑って言う。琥珀も聞いてそれに乗じた。
「し、志貴さんたら、いくらメイド萌えだからってもう手を出したんですか!? この琥珀もビックリです」
「ほ兄ちゃん、スイカ!」
「いや、手は出してないと言うか、訳わかんないって―――!」
わいわいがやがや。いつもよりも賑やかな朝が遠野の屋敷に訪れる。
離れた部屋で事務処理をしていた秋葉は少し眉を傾けつつも、紅茶を嗜みながらBGM調子で聞いている。
賑やかなのは、嫌いではない。幼かった頃、屋敷はむしろ明るく感じていたのだから。
ただし静寂な朝を乱した琥珀には厳重注意。そう頭に書置きして、秋葉は慣れた手つきで次の書類へと目を通した。
◇
光の中に影。
賑やかな朝を迎える屋敷に一人、深く難色を示す人物がいた。
使用人を増やすのも、親戚を招き入れるのも使用人の一介である自分に文句はない。どう変化しようと、与えられた仕事をこなしていく毎日は変わらないのだから。
朝、密かに楽しみにしているのは主人を起こす、その役割。安らかに眠る顔に見惚れる時間は、決して短いものではない。
翡翠はそれが好きだったのだ。志貴がいくら他の女性に振り回されようとそこだけは確固たる自分のポジション(時々アルクェイドに邪魔されるが)。
なのに、
それなのに、
「――――――志貴、様」
息を潜めて扉から覗けば、そこには志貴を中心に囲む輪がすでに出来ていた。笑ってないでツンツンした態度の人もいたが、含めて皆楽しそうだった。
この朝の時間帯は自分と志貴のものなのに、と心の奥で黒い想いが深く渦巻く。
しかも許せないことがもう一つ。
「…………被った」
メイド服が、今までは自分一人だった。だから翡翠と言えばメイドだった。
しかし、新たな使用人の二人もすでに全く同じ服を着ている。そして同性から見る翡翠からでも、その姿は可愛く見えた。
スタイルも、自分より良かった。
震えながらよろよろとその場を去る。翡翠は今、絶望を見たのだ。
三人寄ればもんじゃ焼き。メイドという個性が消えたら自分に残るものなど何もない。ツインテールもミニスカートもなく、実は幼馴染属性なのに誰にも気づいてもらえない。
誰が悪いわけでもない。唯一挙げるとすれば志貴だけど。
絶望に打ちのめされ、彼岸の道を歩くように自室へと足を運ぶ。
だが途中に開かれぱなしの琥珀の部屋が目に入る。元気いっぱいで飛び出した都古のおかげで、扉は全開だった。
翡翠の目が、ある一点を捕えて見開かれる。
翡翠はそこで、希望を見つけた。