「―――シオン、シオン」

 


 遠慮ながら肩を揺すられる。カーテンから差し込む朝日を瞼に浴びて、シオンはゆっくりと意識を浮上させていく。

 


「……ん、志貴?」

 


 瞼を開けるとそこには彼の顔があった。愛嬌のあり落ち着いた感じの顔つき。そっと愛しむように彼の手が伸びてシオンの髪をすくう。

 


 気持ち良さそうに目を細めながら、シオンも彼の手を握った。

 


「おはようございます、志貴」


「あはよう、シオン。ふう、良かったぁ〜」

 


 途端、安堵する志貴を見てシオンは名も知れぬ不快を感じる。彼が外的要因に怯えることが嫌なのか、今だ自分を撫でる手は心地よいが機嫌は頭が回転するにつれて傾いていく。

 


「さ、シオン。もう起きようか」

 


 そう促す彼に、逆らいたくなった。

 


「……起きています」


「え?」


「だから志貴、私はすでに目覚めていますと言ったのです」


「……え〜と、シオン?」

 


 声の調子が明らかに不機嫌、おまけにそっぽを向くシオンに志貴は困惑する。さっきまで気持ち良さそうにしていた筈が、いきなり訳のわからない。

 


 だが一つだけわかること。


 それは、あんまりゆっくりしてるのは色々まずいということだ。

 


「シオン、その、起きてくれないと困るんだけど」


「…………」


「もし誰か来たらやばいだろ。特に翡翠は毎朝、俺を起こしに来るんだし……」

 


 ベッドに男女。


 床には衣服が乱雑していて、当の本人たちは一糸纏わぬこの状況。

 


 癖のある人物が多いこの屋敷での面倒事は、出来れば極力避けたかった。

 困った顔で、頭を掻く志貴。

 


 シオンとて恩人である志貴に迷惑はかけたくない。自分の我儘ならそれは尚更。


 まして、そんな志貴の顔を見せられては通せるものも通せない。

 


「……わかりました」

 


 渋々といった感じでシオンは志貴に顔を向ける。もともと志貴を独占できないのは百も承知。

 


 それでも、やはり何か欲しかった。

 


「では志貴。その、代わりにお願いできますか?」


「?」

 


 シオンの発言に怪訝な顔をする志貴だったが、すぐにシオンの意図を読む。

 


 おずおずと志貴に顔を近づけて目をつむるシオン。これはまあ、アレなわけだ。

 


 お願い、と言われた志貴は唇を合わせる、その単純な行為にシオンの健気さを感じて苦笑する。


 顎に手を添えて微笑み顔を近づけた。

 


「―――んっ」

 


 シオンの甘い声が漏れる。

 


 屋敷に来てから一日目(正式に)、迎える初めての朝だった。

 






 

 

 

 

 シオンとさつきと遠野家と

 

 第五話

 

 

 




 

 

「―――んっ」

 


 そうしてシオンは目が覚めた。まどろみの中にあった頭が段々とはっきりしていく。


 傍らの時計に目をやれば、差す針は六時のちょうどそれ。

 


 上半身を起こして新品の寝間着を確認する。

 


 ある。床にではなく身体の周りに。ボタンも第一以外ちゃんと閉じてる。

 


 周囲を見回してここはそう、自分に与えられた部屋なのだと再確認。もちろん志貴の姿などどこにもない。

 


 つまり、夢だったわけだ。

 


「…………」

 


 シオンに何とも言えない感情が込み上げてくる。今の夢、志貴の身体のラインまで刻銘に覚えている今の夢は何なんだと。

 


 理不尽ついでに枕を睨む。


 この枕が、悪い。それとベッドも。


 つい先日まで路上にダンボールを敷いて寝ていたシオンたちにとって、このふかふかさは悪魔的犯罪に気持ち良かった。おやすみ三秒とはまさにこのことと、シオンは身を持って経験したのだ。

 


 腹いせに枕もとの拳銃で撃ち抜いてやろうかと思ったが、損をするのは自分だし、それではあまりにも大人げない。

 


 しょうがなく溜息を吐くだけで終わらせた。

 


「これは……検討の余地がありそうですね」

 


 尚も身体が毛布を求めるのを得意の分割思考で断ち切り、シオンは一度大きく身体を伸ばす。血の巡りの良さに驚きながら、掛けられているメイド服を見る。これが秋葉から渡された作業服だ。

 


 そして着替えを始めた。

 


 ボタンを外して上を脱ぎ、白い肌が露になる。


 ズボンを下してすらりとした足が現れる。

 


 下着姿になり、ふと、部屋に置かれた立て鏡に目をやった瞬間、そこに映る姿を見て思わずシオンはドキリとした。自分の姿ではなく、そこから連想される姿に。

 


 今朝の夢は……何なのだろう?


 シオンの疑問はその夢が表すものへ向かっている。

 


 夢が表すのは心の内だと、それを願望や欲望と人は言う。


 ただの夢なら構わない。しかし、志貴が出ていることが問題だった。

 


 無意識下で起こる夢に特定の人物が出てくるということは、その人物に善悪どちらかであろうとある程度の想いを抱いているということ。シオンが志貴を見る場合は、怨みでなく好意であろう。

 


 しかし、研究浸りの箱入り学者であるシオンにその気持ちは難しすぎた。計算できないものはとことん苦手なのである。

 


 しかも、

 


 ―――よりにもよって、あんな夢……!

 


 シオンは思い出すと同時に顔を染める。

 


 なぜ夢を見ていた時、それが夢だと気付かなかったのだろう。そもそも志貴は信祖から寵愛を受けている身。そこに私が入れる筈もない。


 そしてそれ以上に不思議なのが志貴に対する態度。私は絶対に、あの甘えるような性格ではないというのに。

 


「そもそも全年齢対象である私が、あのような場面があるというだけでおかしいのです」

 


 訳のわからない呟きを最後に、シオンは無言で着替え戻った。


 腹を立てながらもテキパキに身支度をこなす。

 


 終えた後は志貴の事より仕事に考えを重視。そしたら次は弓塚の残像がシオンの頭を浮遊する。

 


「そうでした。さつきの事だからおそらくは……まったく、世話の焼ける」

 


 大方、今だに枕に顔を埋めているであろう親友を想定して部屋へと向かう。場所は隣ですぐ近く。

 


 こうして、シオンの朝は怒りっ気の多い方向から始まる次第であった。

 

 


 

 ◇

 


 

 

「ふにゅ〜……」


「何て安直なんですか、貴女は……」

 


 隣の部屋へ来て見ると、予想通り弓塚は寝ていた。顔半分、うつ伏せになって枕に埋めて溶ろけた寝顔を晒してる。

 


「さつき、朝ですよ、起きなさい」

 


 シオンは取りあえず肩を揺らして起こそうとするが、


 

「う〜ん、もう食べられないよ……」

 


 ベタな台詞が返ってくるだけ。寝返りをうつが一向に起きる気配はない。

 


「バカなこと言ってないで起きなさい」

 


 揺らしても無駄と判断したシオンは頬を叩く行動へ。ペチペチと一発の威力は弱く、代わりに回転を速くする。


 往復に打たれる高速ビンタ。一秒に十発をひたすら繰り返す。

 


 三十秒ほど続けたところで、弓塚がようやく反応を見せた。

 


「んっ……」

 


 寝ぼけ眼を擦りながら上半身をむくりと起こす。シオンはそれを見て手を止めた。

 


「さつき、おはようございます」


「…………」

 


 弓塚は無言。


 まだ寝ぼけているのか、そう思ったシオンが顔を覗き込むと、ゆっくりとシオンの方を弓塚は向く。

 


「……………………志貴君」

 


 ぽつりと漏らす声は、甘く、切なかった。

 


 ピキッと彫像がごとくシオンは固まる。見上げる弓塚の表情は少し染り、異性に憧れる女の子を強く表して、

 


 無防備な仕草、瞳の色合い、身を任せきった甘い声が、

 


 夢の自分と重なった。

 

 

 


 パシンっと、景気の良い音が場を一転、部屋に響く。

 


「いった―――い!」

 


 ついでに弓塚の驚き交じりの悲鳴も部屋に響いた。頭を両手で押さえながら何事かと辺りをキョロキョロして目の前のシオンに気付く。

 


「ようやく起きましたか」


「……何で怒ってるの?」

 


 弓塚は疑問口調で問う。

 


「怒ってなどいません。いませんのでさっさと起きて着替えなさい!」


「うわ―――ん、やっぱ怒ってるよ―――!」

 


 急かされて泣きながらベッドから這い出る。毛布の気持ち良さもそこそこ、服を手に構えていたシオンが無理やり着替えを敢行してきた。

 


「ちょ、ちょっとシオンっ、自分で着替えるって!」


「ええい、さつきに合わせるといつも効率が悪いのです! 朝もだらしなく寝ぼけやがりましておまけにあんな寝言……やはり訳のわからない朴念仁は嫌いですっ!」


「いやあ―――、脱がされる―――!!」

 


 この、このっと暴れる弓塚に悪戦苦闘しながら服を剥いで着替えさせるという微笑ましい光景が展開。効率悪いことこの上ない時間の使い方がこの後十分ほど続けられた。

 


 そしてシオンが立ち上がる。

 


「準備完了です。さて、早々に仕事に移りましょう」


「うぅ、シオン乱暴すぎ」


「まずはそうですね……志貴を起こすところから始めましょう」


「え、無視!?」

 


 早足で部屋を出て行くシオンに弓塚が懸命に追いすがる。清潔感溢れる服に対してやつれた顔色がミスマッチ。理由は言うまでなく親友のせい。

 


 さきほどの八つ当たりっぽいものも意味不明だったが、今回もまた、なぜ志貴を起こしに行く必要があるのだろうか、と弓塚はその行動に首を傾げる。

 


「ねえシオン、私たちまだ初日なわけだし仕事内容も詳しく聞かされてないんだけど……」


 

 のんびり聞いてくる弓塚に、シオンはやれやれといった表情で返す。

 


「私たちの仕事は秋葉が決めるのではありません。当主は秋葉ですがこの屋敷を管理しているのは琥珀と翡翠です。ですから新人の私たちの仕事は必然的に二人の手伝いとなるわけで、そこはすでに琥珀から命令を受けています」

 


 命令というと堅く聞こえてしまうが、実際は「しばらく屋敷の様子を見ていて下さい」と言われただけ。


 もともと使用人といえど特別なことはそれほどなく一般家庭と変わりない。屋敷が大きい分、家事の範囲も大きくなっただけのこと。

 


 昨夜、シオンは琥珀の部屋を訪ねたが「シオンさんと弓塚さんは慣れるまで適当に私たちを手伝ってて下さいな」「手伝う、とは具体的には?」「はい。掃除や洗濯、庭のお手入れが主ですね。あとは志貴さんの身の回りのお世話とかがあります」「わかりました」といった感じで仕事関係の話は終了。それ以後は他愛もない話をしていたぐらいである。

 


「えっと……いつの間に?」

 


 弓塚は乾いた声であはは……と力なく笑う。使用人の契約やら何やらと色々頼ってばかりで少し反省。心の中で深く謝る。

 


「よし、これ以上迷惑掛けられないためにも初日のお仕事を頑張ろう!」

 


 やる気を声に乗せて気合いを入れてみる弓塚。その姿勢に呆れながらも微笑むシオン。

 


 だがせっかく良い構図になったのも束の間、弓塚がまたも新たに?マークを宙に浮かべて足を止める。弓塚は問題が解消されないと前に進めない子なのだ。

 


 ―――ねえシオン、でも何で遠野君なの?

 


 と言いかけた瞬間、自分でバッと口を塞ぐ。声は漏れなかったようでシオンは気にせず前を歩いているままだ。

 


「(……危なかった〜)」

 


 なぜ先に起こしにいくのが秋葉ではなく志貴なのか。以前のシオンの言葉を借りれば自分たちを雇ってくれるのは志貴ではなく秋葉である。だから優先順位は必ず秋葉が上になるはず。

 なのにシオンは志貴を先に起こしに行くと言っている。

 


 弓塚は細く微笑む。


 これはもう、つまりそういうことなのだろう。そして今着ている清楚なメイド服は可愛いほど似合っている。自分はどうだかわからないけど、シオンは髪も下してるいし軍人ぽいキビキビした動きもあまり見えない、総じて可愛い女の子だ。

 


 シオンが志貴に対する態度を友人以上と感じても、弓塚は「遠野君はやっぱ人気あるな〜」と思うだけで嫉妬の欠片も見られない。


 彼女たちの絆はそれほどなのだ。路地裏生活は伊達じゃなく、それを経た絆は翡翠&琥珀に匹敵するかもしれない。弓塚はもちろん考えていないがタナトスを許せる間柄。

 


「さつき? そんなところで立ち止まってどうしたのです?」


「えへへ〜、何でもないよ、シオン」

 


 離れた距離を軽快なステップで詰めていく、顔のニヤニヤが隠しきれていない弓塚。


 怪訝に思うシオンだが、ご機嫌な親友を見てやめておく。せっかくの気分に水を差すのは無粋だから。

 


 持ちつ持たれつ。

 
 年相応の、久しぶりの笑顔で話しながら、シオンとさつきは志貴の部屋へ向かっていった。