天井に届くぐらい大きい棚が倒れる。
二度による衝撃で留め具が外れてしまったのだろう。バチンっと何か弾ける音がした。
「―――琥珀さん!!」
「あっ」
咄嗟の反応。
自分と琥珀、そして扉を直線で結んで志貴は最短距離を一気に跳んだ。
無造作に積み上げていたものを巻き込んで、それが霰のように落ちてくる。
ボケっとしている琥珀を跳んだ拍子に腕に抱えて部屋の外まで勢いよく転がった。
「くっ」
受け身が取れずにそのまま壁にぶち当たる。
背中を打った衝撃に息が詰まったが、どうやらそれだけで済んだらしい。怪我はどこにも見当たらなかった。
「し、志貴さん、大丈夫ですか!?」
「うん、ちょっと背中が痛むぐらい。琥珀さんは?」
「私は問題ありませんけど……」
平気な顔をして志貴が腕の中の琥珀に視線を落とす。日々トラブルの中に生きる志貴の体は無駄とは言わず頑丈である。
琥珀が安堵の息をつく。そこへ、
「志貴様、姉さん!!」
「翡翠!?」
両手でスカートの裾を持ち上げながら、慌てた風に翡翠が駆け付けた。
だが二人を目の当たりにして唐突に固まる。
「翡翠?」
「…………志貴様と姉さんが抱き合ってる(!)」
言われて当然、志貴は琥珀を抱えて飛び出したまま。その直後なのだから志貴は廊下で琥珀に覆いかぶさっていて、見方によっては不埒な様にも見えてしまう。
いつもの志貴なら慌てて取り繕っただろう。変な誤解をされないよう、それは必死に。
しかし今はそれどころではない。
何せ志貴の部屋の方から爆発音が聞こえて、おまけに微かだが秋葉の攻撃ボイスまで聞こえたのだから、心配(己の身も合わせて)でしょうがなかった。
故に翡翠の動揺には気にする余裕もないので、
「あ、ごめん琥珀さん」
いつもの彼らしくなく、平然と身体をどける。そんな志貴の心中はちっとも穏やかではないが、翡翠は動揺しているせいか志貴の顔が冷や汗まみれなのに気付かない。
疑問、動揺、嫉妬が翡翠の中で混ざっては消えて浮かび上がる。
様々な感情が混じったとしても、翡翠に百面相の文字はない。代わりに段々と恨むような、危ない感じに目が細まる。
「えーと、翡翠ちゃん? それに志貴さんも……」
妹がこれ以上危険にならないよう、ついでに愚鈍な志貴も含めて嗜めようと琥珀が声をあげて、
「バレルレプリカ……」
どこか遠くから、小さな声が耳に届いた。
「―――翡翠、下がれ!!」
「っ!!」
咄嗟に叫んだのは志貴。
悲鳴に似た志貴の声に遅れない反応で翡翠はスカートを翻して大きく後ろに跳んだ。
跳んだ刹那、前の廊下が放射するエネルギー量に耐えきれず一斉に吹き飛ぶ。今朝の掃除が根本的に無駄だと思うくらい綺麗に、派手に、そこら一切喝采あるもの全てを持っていく。
床についてた琥珀は反応出来る筈もなく、志貴の突然の声に驚くだけ。しかし隣の志貴が助けに入り木端微塵は防がれた。
そんな琥珀はまたも志貴の腕の中にある。それも今度は完全に抱えられた状態。
「…………お姫様抱っこ」
「あはっ……」
胡乱な目を二人に向ける翡翠。睨むより無表情なのがかえって恐ろしく、苦笑いでカバーしながら琥珀はやや冷や汗を垂らす。
しかし一番ドキドキしなければならない志貴本人は全然気にしていなかった。
数秒前に志貴を含め三人がいたところ、今は瓦礫となして全壊である。
……全壊である。
ドキドキより、むしろこの惨状にドクドクである。部分的には逃げ遅れた右足が。
霧にも似た塵芥が沈み、視界が全てを視認する。
「―――遠野の当主、貴女の答えを聞かせていただきたい」
凛とした声が静寂した辺りに響いた。
声の主はシオンだ。靄が晴れて彼女の姿が志貴にも見て取れた。
これだけの惨劇、しかもその中心地帯にいたにも関わらず目立った外傷はない。唯一、トレードマークのペレー帽子が焼失、心なしか上部が寂しいだけである。
「……ふう」
対して秋葉は溜息一つ。こちらもシオンと同様に無事とわかる格好だった。
パンパンと秋葉が服を叩いて埃を落とす。長く、美しい目のあたりを細くしながら。
「……ふ、二人とも」
擦れる声の主人公。今から喧嘩でも始める気なのか? 半ば屋敷をぶっ壊してすでに始まっているような雰囲気に志貴はカタカタ震えだす。
しかし、そんな志貴の不安をよそに秋葉は、
「いいわ、遠野家の長として承諾してあげる」
問いの三秒でそう答えた。志貴たちには何の話か知らないが、積み上げられた書類にハンコを打つ感じとも思えるほど秋葉の声はあっさりしていた。
「い、いいのですか!?」
「あら、そんなに驚くことかしら。私に文句はないし、貴方もそれなりの可能性があるから言ったのでしょう?」
悠然と秋葉は言う。
屋敷を半壊さしても見えていないのか志貴たちは相変わらず蚊帳の外である。
「それでは……」
「ええ、私は仕事があるし手配もしなければならないからすぐとは言えないわ。夕食が済んだら私の部屋に来なさい。それまでに必要なものは揃えておくから」
言い終えて、秋葉は去った。
その後ろでシオンが感謝の意を込めて頭を下げる。二人が離れたことで、この騒動は終わりを告げた。
秋葉は瓦礫の中、歩いて志貴たちのいる方へ向かう。
それは志貴含めた三人に何か言おうとしている訳ではなく、自分の私室がそちら側にあるからという理由で。
都合上、琥珀と翡翠を一瞥する。その眼差しの意味は琥珀が溜息、翡翠が肩を落としたことで志貴にもわかった。
最後に一言、そのまま通り過ぎず秋葉は己の兄を見つめた。半当事者である志貴は震えながらも身構える。
「……な、何だよ」
「兄さん」
対照的に秋葉は微笑んだ。その笑いは仕事の順調さを表す様で。
「使用人が増えました」
シオンとさつきと遠野家と
第三話
「ふあぁ、疲れた……」
「……」
時刻は午後の二時辺り。
琥珀と翡翠は今しがた片付いた台所に向かい合うようにして座っていた。琥珀は情けなくもテーブルに突っ伏している状態である。
午前の騒動のあと、平常の三倍にまで膨れ上がった仕事にもようやく一段落が見えてきた。琥珀のヘニャリ状態を見て、翡翠も疲れがたまってたのであろう、椅子に深く背中を預けた。
半壊した東館は業者の方々にお願いしたからさほど問題ではなかった。費用は秋葉持ちだし、あれ程の被害にかかわらず負傷者はゼロである。
問題点を挙げるとすれば志貴の部屋が吹っ飛んだことだけだった。本人にはともかく、他の者にとっては安く済んだと言えよう。
琥珀たちにとって厄介なのは屋敷全体が地震でも起きたように揺らされたこと。外装が無事でも内装が滅茶苦茶である。
よってまず一番に秋葉の部屋を元通りにして、台所、リビング、玄関に廊下。
整理整頓が苦手な琥珀も、昼の支度以外は翡翠の猫の手役で動き回って……そして今に至る。
ボーナスが出なければやっていけない心境である。
ちなみに秋葉は使用人の新規登録といつもの遠野家の雑務しながら、綺麗な自室でティーである。
その兄の志貴といえば、業者さんを手伝いながら埋もれてしまったであろう私物の発掘だ。連れてきた二人も一緒にやっていた。
「さすがに志貴さんたちの方ももう終わったかなー、翡翠ちゃん、どう?」
「……さっき見た時には業者の方しかいなかったから、多分新しい部屋の方で休んでいると思う」
「志貴さんもたいへんよねえ、部屋がなくなっちゃうなんて……」
目の前に志貴がいればからかいもするが、仕事疲れでそんな気力はないので苦笑い。あの場にいなかっただけ、志貴は幸運かもしれないのだし。
部屋ついでに琥珀は思う。機会もあるのだし翡翠に訊いてみようと口を開いた。
「ねえ、翡翠ちゃん。部屋で思い出したんだけど……志貴さんが連れてきたお客さん、どう思う?」
「……」
「あのお二人は使用人になるわけだし、外で暮らす家もないのだから志貴さんの目的も重なって必然的にここに住むことになるんだけど」
「……姉さんはどう思ってます?」
「私? そうですね、お姉ちゃんとしては志貴さんを囲む構図も変わって面白そうだし……じょ、冗談よ、翡翠ちゃん!」
翡翠のジト目を受けて、ゴホンと咳払いで誤魔化す。
「まあ、そういうの抜きにしても賛成かな。広い屋敷を二人で管理、そのことは秋葉様も考えてたんでしょう。四人に増えればだいぶ私たちの負担が減るし、今回秋葉様がシオン様と弓塚様を雇ったのもそれ以外に理由はないもの。
秋葉様が比較的お二人、特にシオン様かな、気に入られたってのも要因の一つでしょうけど」
「……で、でも姉さんは? 姉さんは何とも思わないの?」
「へ? だから私は賛成だって、」
「そうじゃなくて、私が言いたいのはもっと別の……」
いつの間にか身を乗り出して、そして俯いてまた席へ戻ってく。
琥珀とて双子の姉妹。翡翠が志貴の連れてきた二人に難色を示すのもわからないことではない。志貴付きのメイドなのだからそれに性格も相まって余計に、といったところであろう。わからないのは自覚あり朴念仁の志貴本人くらいである。
「さて、それじゃお姉ちゃんは志貴さんたちと買い出しに行って来るけど翡翠ちゃんも行く?」
「……私はいい」
「そう? それじゃあとはそう仕事もないし休んでて。秋葉様に呼ばれたらお願いね、あ、紅茶のパックはそこに置いてあるから」
翡翠の気持ちにはあえて触れず、そのまま琥珀は次の仕事へ早移る。
翡翠の縋るような視線を感じながら、いやいやこれも翡翠ちゃんのためと琥珀は内心で深く想い、微笑んだまま台所をあとにする。
振り返らない琥珀を、ずっと、未練がましく翡翠が見ていた。
◇
翡翠との会話の後、琥珀は志貴の部屋へ向かった。
午前からの延長した片付けに引き続きまたも仕事に他ならないが、琥珀はそう感じてはいない。むしろ気分転換には持って来いなのだ。
和服の内にしまってある財布を確認。
こんもりと膨れているのは無論、秋葉から大量に貰ったためである。
付け加えて言うと決して盗んだわけではない。仕事の合間に秋葉から直接頂いたのだ。曰く『それ(無茶苦茶になった部屋)が終わったらさっさと言ってきて頂戴』との事。
「志貴さーん、おじゃましますよー」
新しくなった志貴の部屋は琥珀、翡翠のすぐ近く。
屋敷に来た当初は殿方なので東館へと分けられたが、今はこっちの方が色々と安心というのは秋葉の弁だ。
「やあ、琥珀さん、いらっしゃい」
「あ……こ、こんにちは」
志貴の挨拶。別段、前の部屋とあまり変わってないのだがそれでも何となく新鮮である。
志貴の後ろについていた弓塚はまだ緊張してか琥珀に慌ててお辞儀した。それを見た琥珀は笑って返す。
「そんなに硬くならないで下さいな、弓塚さん。秋葉様からお聞きしましたけど使用人になるのでしょう? 立場は同じなんですからもっとリラックスして構いませんよ」
「わ、わかりました。頑張ります」
「はい、ぜひ翡翠ちゃんとも仲良くなって下さいね」
言うと同時、隣で志貴が苦笑した。
「……志貴さん、私が何か粗相でも?」
一転、弓塚の時とは変わってむっとした表情になる琥珀。
志貴は慌てて、
「い、いや、そう言う訳じゃなくて何と言うか……。弓塚さんと琥珀さんが話してる
のが面白かったから」
手をパタパタ振って誤魔化す。
本当は琥珀の口調が八年ぶりに屋敷に戻ってきたときの志貴に対する態度と同じように見えたので、思わず笑ってしまった次第である。
「で、どうしたの琥珀さん。何か用事?」
「はい。でもどちらかというと弓塚さんとシオンさんに用がある、と言った方が正しいですね」
「私ですか?」
「そうです。私の方も片づけが済んで志貴さんもお引越しが一段落ついたようですから、そろそろいいかなーと思いまして」
志貴と弓塚は顔を見合わせる。二人とも琥珀の言わんとしてることがイマイチわかっていないようだった。
鈍感な志貴はいい。しかし弓塚が本気で分かっていないのであれば重症だ。日々の荒れた生活で欠けてしまったかもと、琥珀は溜息を洩らす。
「お召し物! お洋服ですよ、二人とも! 弓塚さんとシオンさん、着る服がそれ一着しかないじゃないですか」
「あ、なるほど」
琥珀の指摘に言われてみればと頷く志貴。
一方の弓塚はそれを聞いてもまだポケっとしている。
「え、でも使用人の時の作業服は秋葉さんが仕入れてくれるって……」
「はあぁぁぁ〜」
その言動に琥珀は目も眩むとばかりに額に手を置いてよろける仕草。落胆した演技を見せる。それからびしっと親指を突き付けて、
「弓塚さん、それはあくまで仕事をする時だけの格好! れっきとした女の子なら普段着の数着数十着、そのぐらい嗜むのは当然のこと。弓塚さんも吸血鬼となり家を離れる前はたくさん持っていた筈です!」
力説。弓塚も気付いて驚く口を押さえるように手を当てた。
「……そういえば、そうですよね。すっかり忘れてました」
「思い出してくれれば構いません。使用人といえど休暇は貰えますから、その時は重っ苦しい服なんてバッと脱ぎ捨てておしゃれを楽しまないとです。せっかく女の子なんですから」
「あれ、でも琥珀さんと翡翠はその服以外ろくに見たことないような……」
志貴の突っ込みも軽く無視して、と言うことで、そう言い直して琥珀が志貴に向かって朗らかに微笑む。
「今からお買いものです。衣服を含めた弓塚さんたちの生活用品、ドバーっと買い込みに行きましょう! お金はたんまり、この通り」
分厚い財布を取り出した。もちろんその分厚さは志貴の財布のように一円や五円の小銭で凸凹に分厚いわけじゃない。
真っ平らに分厚かった。
ごくりと唾を呑む志貴。
「こ、琥珀さん、それ……」
「はいはい、志貴さんが考えてるようなことは一切していないのでご安心を。私も新しく使用人が増える手前にそんな醜い事は致しませんよ。しても他言無用で墓場まで、です」
ついでに琥珀は半目になって志貴を見つめて、
「それとこのお金は新しく屋敷にすむお二人の生活をそれなりに満たすためのお金です。間違っても志貴さんのお小遣いにはなりませんからね」
「そんなぁ〜」
「ふふ、欲しいものがあったら秋葉様に直接言えばいいんですよ。まあ、言えたら最初から苦労してませんけどね」
意地悪っぽい表情をつくって志貴に注意点を述べておいた。文句を言いながら項垂れているのを見ると、今月の金銭状況も結構苦しいらしい。
「さて、そんな志貴さんは放っておいて、時間もない事だしさっさと四人(もちろん志貴含む)で行っちゃいましょう! ……と言いたいところですがシオンさんは、その、」
「あはは、えっと、シオンは秋葉さんとの闘いで予想以上に体力を消耗したって言って……」
三人同時にベッドに視線を移す。
まだ二人に部屋を当てていなかったので仕方無いが、志貴の部屋にも関わらずそこには堂々とシオンが寝ていた。琥珀のはしゃぎ声でも起きないほどにぐっすりと、深く枕に頭を沈めて熟睡。
その姿を見て、琥珀は先程まで大きい声を出していた罰の悪さもあり、
「……それでは三人で行きましょうか。志貴さんも弓塚さんも、それで構いませんよね?」
苦笑しながらそう言った。
二人が頷いて、それから静かに部屋を出る。
途中、志貴がふと思いついて机に向かい、ペンと用紙の切れ端を取り出して一言書く。書置きを残しておいた方がシオンも安心するだろうとの志貴の配慮だ。
女心には鈍いのにこういう気遣いは上手いんですよね〜と、琥珀がドア越しにひょっこり顔を出して感心しながら、志貴に向かって手招きをする。
最後にシオンが眠っているのを確認して、志貴も続いて部屋を後にした。